もよもよ日記

日々のたわいのない事と読書録

めちゃくちゃ厳しい母親の元で育った人間の現在の話

私はめちゃくちゃ厳しい母親の元で育った。これはひょっとして毒親…と思いつつ30近くまで実家で暮らしていたのだが、結婚を機に家を出てわかった事がある。

 

結構みんなゆるく暮らしてるし、人生なんとかなる。そして、私は母に似てきている。

 

私の母はとても厳しい。どのくらいかというと、小学生の頃は土日はほぼ習い事(水泳、ピアノ、絵画、母が教える勉強)で埋められていた。しかも習い事のピアノ教室には母の決めた仮想ライバル(相手はそんな事思ってない)が存在し、その子より上手くなるか、褒められないと母の機嫌はとても悪くなる。

そもそも3歳前からピアノに通っていたので、そこに私がピアノ行きたくないという意見は考慮されず、酷い時はピアノを弾かないという理由でキレた母に抱えられ階段へ落とされそうになった事がある。叩くのはしょっちゅうだ。

勉強は春、夏、冬休み中に一学期分のドリルをさせられ、完璧にさせられていた。もちろん、友人と遊ぶ事とテレビは禁止、中学高校は恋愛も禁止、一度見つかった手紙は大声で読み上げられ何度も叩く&蹴られた。一度学校の担任がやり過ぎではと言った事があったが、母は逆ギレを起こしたこともあった。いわゆるモンペでとにかく厳しかった。これだけやれば母からすれば自分のように国立大に入学できる子になるだろうと思っていたみたいだった。それでも私は勉強ができなかったのでいつしか母の興味は私から優秀な妹に注がれていった。

私はいつしか家の中で発言を許されず、視線にも入れてもらえない日々が過ぎた。

 

それから10年過ぎどうなったかというと…

 

私は見事に原因不明の体調が優れない事が頻繁に起き正社員とニートとフリーターを繰り返したのち、幸いまともな両親の元で育った夫と結婚した。常に中立であり続ける夫には感謝しかない。

私の育った環境には中立な立場の人が一人も居なかった。女系家族であるため、母に従うしかない天涯孤独の父と優秀な母に付き従う乳母のような祖母、そして朝から晩までパチンコに行って帰ってこない祖父、そして優秀であろうとする妹。あの家は母の機嫌で中心に回っていた。

夫と結婚して気づいたのは、人の感情に付き合う必要はあまりないという事だった。私が泣こうが喚こうが鬱になろうが、夫は夫で心配はするが、私と一緒に暗くなったりする必要はないという事。そして仕事を風邪で休んでもクビにならないし、少しのミスでこの世の終わりのようなパニックになる必要はないというめちゃくちゃ当たり前の事に気付いた。実家では気づけなかった事だった。実家では正常な判断ができないくらいのペースでなじられるのだ。

家を出てから体調はとても良くなった。夫も驚くほどに。

妹はというと結婚と離婚を一年半の間に繰り返した。離婚した後、妹は買い物に明け暮れ、母が勉強するのに家庭科は要らない、働く女に家庭科はいらない教えたので家事が全くできないので再婚後は実家へ毎日ご飯を取りに来る。もちろん、母ではなく85を過ぎた祖母が作っているご飯を。

私は、そんな環境をとても怖いと思う。そして母のようになりたくないのに母のような発言をする私が怖いのだ。いつか産むかも知れない私の子供に母のような仕打ちをしてしまうのではと恐れている。祖母の事を悪くいう母を見ていると。

 

 

職場がやばい

とてもやばい。新しく入って来た人がシフト通り来ない。まだ3ヶ月もたってない。休みまくるわ早退しまくる。なんか梅雨だかららしい。なんじゃそりゃ。メンタル的なものならしょうがないなぁ〜と最初の一ヶ月は思ってたけど、最近は一週間全く仕事に来ない事もザラで流石にみんなピリピリしてきて人間関係の二次被害があちこちに起きてる。困る。本人も大変なんやろうけど、マジ困るわ〜やってられ〜ん!!!!しかも休んでもすみませんの一言もないし、来た時からシフトの時間調整の主張は一丁前に激しいし、調整しても休むし、どこで買ったん⁉︎みたいなブラックジャックのTシャツで仕事来るし、結構肝座ってますやんみたいな事するくせにメンタル弱いんかい!わけわからん!

生理痛の話

生理痛が痛いので布団で転がっていると夫が大変だね〜と言ってきた。めちゃくちゃ棒読みだったので、どれだけ痛いか自分の腕で痛さ具合を調整した後、夫の腕をゴンゴン叩きながら痛さを実演した。夫は、「いた〜い、こんなのやられたら死んじゃうよ〜」っと言っていた。軟弱だと思った。

乳がん検診に行ってきた

そろそろ歳も歳なので乳がん検診に行ってきた。マンモグラフィデビューしました。

簡潔にまとめるとめっちゃ痛いけど、親知らずの抜歯よりは痛くないです。一瞬なので。子供の頃やった腕に雑巾絞りを胸にやられてる感じです。

私はペチャパイなので胸を板に乗せる所から看護師さんと二人てんやわんやしながら無事終えました。

回復と読み終えた本

無事体調は元に戻った。病院での待ち時間がまた長かったので、持って行った本を読み終えた。帰り際、他の病院へ患者を運ぶために救急車が来ており、担当の看護師と医者らしき人達が見送っていた。通り過ぎる時に、どちらかが発した「戻って来てほしいなぁ。」と言う声が聞こえて来た。

久しぶりに歩いて三ノ宮へ出て髪を切って帰って来た。いつのまにかクリスマスになっていたので、ケーキとデパ地下の惣菜を買って帰った。

 

読み終わった本

オードリーの若林が書いた「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」を読み終えた。紀行文のようで最後の方は物語の様だった。数年前に育ての親の様な存在の祖父を亡くしたからかとても共感するところがあった。

安静

かれこれ1ヶ月近く咳が止まらないと思ったら気管支炎をこじらせて肺炎一歩手前になっていた。6時間近く大きな病院で待った後に安静と告げられ、それならもっと早く帰してくれと一瞬思った。長い待ち時間で殺伐とした待合のテレビから流れるパンダのニュースに一瞬、空気が綻ぶのを感じて、やっぱパンダはすげーなと思った。

それから四日間すべてを放り出してベットの中にずっといるけど四日目にとうとう動けない事に対して精神状態が悪くなってきた、布団被ってチャットモンチーのシャングリラを歌う。希望の光なんてなくったっていいじゃないかなところを大声で歌う。そして、その後何事も無かったように布団から出て8年前に肺炎にかかった時と同じようにその後オードリーのDVDを見てthe brilliant greenの曲を聴くのだった。

the brilliant greenのCDと加藤ミリヤのライブのCDとオードリーのDVDと矢沢あいご近所物語をリュックに入れてキャリーに少しの衣類と本を入れて引っ越してきた。これさえあれば生きて行ける気がするし、今まで生きてきた。そしてこれからも大丈夫な気がする。今は靴ひもが結べなくてもそのうち結べる。でも早く外へ飛び出して走り回りたい。